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2008年8月31日 (日)

銚子駅とハックルベリーフィンの冒険

Dscn8981 【読書メモ】
『ハックルベリー・フィンの冒険』(M.トウェイン/西田実訳 岩波文庫)
8/29読了(再読)

以前読んだのは高校生の時か、大学生の時だったか?『ミシシッピ河上の生活』も入手して読んでたから大学生の時かな。

今回は『キャッチャー』を翻訳変えて再読した流れで、いわゆる少年一人称アメリカ文学の系譜を遡るというやつだ。
なんだかやはりトムが出てきてからのどたばたにはうーんと首をひねってしまう。おなじスラップスティックでも公爵と王様の方が読んでいてやたらおかしい。

白眉はミシシッピをとりまく自然と生活の描写。セントルイスからニューオリンズまでアムトラックで下ったのはかれこれ15年以上も前のことだけど、一度でも南部の空気を吸ったことはやはり文章を味わう上で効いてるような効いてないような。

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2008年8月28日 (木)

成田まわり銚子行

Dscn8974 08:18成田発Dscn8973_2

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2008年8月27日 (水)

ダーモット・キンロス博士によると

  『…よくあることだが、家庭の平和のためというので感情を押え、それが、徐々に辛抱できないくらいに昂じて、急に爆発点に達して爆発する。そういうときの激しさは、われわれ普通の人間には信じられないくらいひどいものだ。家庭内の感情のもつれが、思いがけない爆発の動機を作るんだ。
 いたって信心深い家庭で申し分なく育てられた娘が、なんということもない家族間の軋轢以外に、はっきりした理由もないのに、手おのでまず継母を殺し、それから父親を殺したという事件があるが、こいつをでたらめだと言い切れるかね?今まで妻と口喧嘩一つしたことのない中年の保険外交員が、妻の頭を火かき棒でめった打ちにしたという事件もある。十六歳になるおとなしい少女が、継母を恨んで、赤ん坊ののどをかき切ったという事件もある。信じられないかね?みんなたいして動機はありはしないだろう?それでも、そんな事件は起こるんだ」』Dscn8972_3

という記述がある。いまの教育評論家の話じゃない。ディクスン・カー(井上一夫訳)の「皇帝のかぎ煙草入れ」の一節だ。発表は1942年。
だからね、マスコミの方々はよく考えもしないで簡単に世相のせいにして何かを語った気にならないで欲しい。
それにしてもワイドショーに出てくる「教育評論家」はよくもまあ勝手なことばかり言うよね。そもそも「教育」を「評論」して飯を食うってどういうことだ?

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2008年8月 6日 (水)

キャッチャーと翻訳と著作権

yが村上版の『キャッチャー』を買ったので、遅ればせ僕も読ませてもらった。ちょっとばたばたしてるところだったので、どさくさで先に読み終わってしまった。Dscn8946

この村上版の新訳は2003年に発表されているのだけれど、既に野崎訳は読んでいるし学生の時に原書にもトライしているので、3回目を始めるとなるとまたそれなりに気持ちを励起させていかなきゃならないなあ、と思い手にとってはみたもののなかなか購入するまでの踏ん切りがつかなかったシロモノ。
ただ原書でいちばんぐっときたフレーズ…’Allie, don’t let me disappear.  Allie, don’t let me disappear.  Allie, don’t let me disappear.  Please, Allie.’がどうなってるかなあ、と当時は立ち読みでぱらぱらめくった。村上訳では「アリー、僕を消したりしないでくれよな。アリー、僕を消したりしないでくれ。アリー、僕を消したりしないでくれ。頼むぜ、アリー。」ここに関しては野崎訳の方が好きだなあと思ったこともあり、慌てて買うこともないか、と古本待ちに入ったのだった。ちなみに僕の記憶の中での野崎訳は「僕を消さないでくれ、アリー。僕を消さないでくれ、アリー。僕を消さないでくれ、アリー。お願いだ、アリー。」違ってたらごめん。いまこの文章をアップしている環境では手元に資料がないので、検索かけてみたら原文http://othervoices.wordpress.com/2007/06/06/dont-let-me-disappear/と村上訳http://funkasticbaby.web.fc2.com/kikaku_spitz_cold_cheek.htmlは出てきた。どちらも個人のページなので、信頼度は分からないけど。ただ野崎訳だけはヒットしないので完全に記憶だのみ。

また余談だけどググる前にこの disappear という単語が頭に残ってたんだけど、'Don't disappear me …’でいいのかなあと思いまず辞書を引いてみた。するとこれ自動詞のみなんだ。だから単純なSVOでは意味が通らない。「姿を消す」というニュアンスからすると disappear のはずだけど違ったかなあ、と思って検索。そうか let me disappear か、自動詞のこんな用法そういえば高校時代に習ったような…。Don't let me down と同じか。そういえば Don't let me down って、ミレドレドラという頭のフレーズが「ドレミを逆に降りてくる」からダジャレで(ドレミダウン)付けたって話もあるけど本当かね。それはともかくやはりこの「僕を消さないでくれ」に関して考えてみれば、例えば Don't erace me ではやはり直截的すぎて全然だめだろう。そしてこの一文についてはより切迫感が強い野崎訳が個人的には好み。

斯様にして村上版『キャッチャー』を読むのは遅くなったわけだが、柴田元幸との対談を軸にした『サリンジャー戦記』については実はずいぶん前に読んでいる。引っ張り出して再読。阿里山森林鉄道の切符なんかがページに挟まってたり。世間的評価のあり方として「キャッチャーは好きだけど、キャッチャーを好きなやつは嫌い」なんて話が出てくる。ついでに太宰とテグジュペリを含めて、心やさしきファン層の存在が作品の評価を不当に貶めているなんてのは確かにそうだよなあ、と思う。その辺に関していえば、共通して言えるのは「○○を好きな私が好き」というところの自意識が中途半端で恥ずかしいということか。○○に太宰とか星の王子様とかライ麦畑とか入れてみるとね。もっと入り口に近いところではなんだかサガンみたいな邦題が最初のハードルになったりして。これらの作品はそんな皮相的なところで読みを止めてしまうのはもったいないというのが本書の主張であり、その見方には一票。
学生時代、当時の『ライ麦畑』について話をしていたとき、「大学生にもなって、あんな話には感心できない。主人公はあまりにも子供っぽすぎる。」という評価を2人からさらっと言われた。当時の地方大学生(でオケのひと)がいかにコンサバに仕立て上げられていたか、自分もそのひとりとして明確には意識できていなかった。(そのくせそのうちのひとりとなんか「ラピュタ」夢があっていいじゃないですか。空の上にあんなお城があったら…。とか言っちゃってるんだからまったくもう。もうひとりには僕に弁証法と交響曲の関係や、クーベリックのシューマンを聴かせてくれたりしたのでいまでも敬意はもっている。)とはいえ当時はムキになって反論するほどの確信を自分でももってなかった。結局いまでも自分の言葉では大したことは語れないので、この対談どう思う?としか言えない訳だが(情けない)。まあでも
≪そうじゃなくて、いろんな入り口があって、いろんなルートがあって、いろんな視座があって、その多様さがこの小説の存在を深めているんだというところが、いちばん大事なんですよね。でも、やっぱり世間の多くの読者は、読んだ本が心の中に意味もなくしっかり残っちゃったりすると、不安でしょうがないんです。それをそのまま自然に支えられる人って、現代社会ではむしろ少ないんです。だから、何とかそこのところを言葉で絡めとろうとするし、そうするとあっというまもなく制度化が始まっちゃうんですよね。じゃどうすればいいのか、と言われると、僕もまあ困っちゃうんですけどね。≫と村上氏も述べてるように、この小説のなにがキモなんだというのは言語化不能な領域ではあるはず。言語化不可能であるということをメタレベルでかくも見事に説明しちゃうところはさすがだね。

流行り言葉の強度と寿命についての感覚には多少の世代差を感じなくもない。「マジで」が残って「イカス」がもたない、というのは僕の感覚からすると逆だ。たぶんまあ「マジで」という言葉はすでに社会に根を張ってはいるんだろうけれど、とくに村上文章のなかに織り込まれるような使われ方はしていない。僕は書き言葉にはまず使わない。おじさんだけでなく高校生だってそうだろう。口語としてはそんなにめずらしくないけれど、リズム感としてはDAIGOなみの流速とともに使わないと違和感がある。「ちょーブルー入ってんすけど、マジで。」もうちょっと速度をゆるめたいときには「まじな話」「まじめに言うと」。ホールデンの語りとして表記するならせめてひらがなで「まじで」くらい。「イカス」は村上世代のすぐ上が頻繁に使ってたせいで言葉の生命力が萎えてしまっているんだろうけど、ぼくらはもう一周しているからちょっとニュアンスが違う。吉田聡や加瀬あつし的に「イカスー!」とやれば、本来の味とは微妙にずれるけれど使えないことはない。のはひょっとしてオレだけか。あと「ユルい」は残るかも知れないけれどそれよりは「ヌルい」のほうが強くないか、とか。結局この辺の単語は翻訳用語としては相手にしない方が無難に違いなく、だからこそあえて「マジで」なんかいらないと思う。うちには「A hard day's night 」の82年ニュープリント公開版のVHSがあるんだけど、当時つけた字幕で4人がポールのじいさんを「オジン」と呼ぶたびにげんなりしてしまう。

それでもっていまはさらに遡って『翻訳夜話』を再読している。そもそもこの文章もこの再読にあたって、そう言えばまえに翻訳マイブームだったなあということを書こうとしたのだが、ずいぶん前置きが長くなってしまった。最後にやってたのはB.スターリングの”The Artificial kid”。邦訳が出てないのをいいことに翻訳するそばから仲間内で無理矢理に読ませた。文化的背景の違いは翻訳上の宿命であるとともに醍醐味でもあるのだけど、それだけじゃすまないSF、それもサイバーパンクをいきなりごりごり訳していって(しかも全訳を見渡して文章を整えるでもなく、出来たそばから出荷)もう世界観とかテーマとかも訳分からないまま読まされる方は難儀なことだったと思う、にも関わらずやってる方は結構おもしろかった。その前にいくつかの作品で練習してたこともあるが、デビュー2作目にも関わらずスターリングの文章がやはりいいんだろう。作業の時期にもよるだろうけど、ギブスンやるよりおもしろかった。当初はネット環境がまだ黎明期だったこともあって紙の極小伝達媒体をせっせとつくって楽しんでいたのだが、パソコンというよりまるで「インターネット」そのものが白モノ家電名詞であるかのような状況になり、内輪での情報共有ツールも多彩かつ簡便に提供されるようになってきたので長いこと放ったらかしにしている。コピー機による家内制手工業はしかし、全世界に発信できる冷蔵庫並みのインターフェイスをもつツールに置き換え可能になってしまった。しかしコピーライクな情報共有はコピーライツの問題が付随するので、とくに人のふんどしで相撲を取るような場合はできるだけ小さくひっそりやる方が気は楽なんだけれども、世界中に発信できることの誘惑にはなかなか敵わない。そんなこんなもあり、また世の中とかそれに呼応している自分の世代とかがむやみやたらと忙しくなってきたこともあり、自分のなかでの翻訳ブームもいつしか下火になってたわけですよ。
ところで権利ということについて、改めて考えてみると、1)もとの英文をそのままアップしちゃうとか、誰かの訳文をそのままというのはまあ当然ダメなんだが、2)翻訳権を国内の出版社がもってるものについて自作の翻訳を公開しちゃう。というのはどうなんだ?翻訳権ていうのはもう少し正確に言えば翻訳出版権てことだろう。出版しなきゃいいんじゃないか?音楽でいうと著作権の付随する楽曲を演奏して金をとるのは違法とされるけど、収益の発生しないフリーコンサートでは使用料払う必要はない。その原則でいうと、ビートルズを自分でカバーしてyoutubeにあげたって問題ないのでは?と思いちょっと調べるとhttp://questionbox.jp.msn.com/qa3551314.html?StatusCheck=ONこんな話が。ここで質問回答している人たちの異様な低姿勢の気持ちの悪さはともかく、少し踏み込んで考えてみるとyoutubeとかはサイトが商業ベースだからまあまずいかも知れない。とか考えてたらもっと気持ちの悪いこんなやりとりとか。http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1111360466これはいったいなんだろうね、自作自演かとか思ったけどそういうわけでもないみたいだし。なんの躊躇もなく「どのような場合でも」なんて言い切るこの厚顔さはどこからくるのか。そこまで万能な権利あるはずないだろ。好きな歌を人前で歌っちゃいけないのか?古賀政男だろうがタイマーズだろうが好きな歌を好きな場所で歌っていいんだよ。権利のある歌を公の場所で歌っちゃいけないなんて法律はない(せいぜいが道交法を無理矢理適用されるくらいだ)。そう考えれば広告を廃した私的なサイトに載せることは問題ないはず。
だいぶ横道にそれた。もとの話に戻すといま考えていたのはそんな大それた話でもなく、3)翻訳がないテキストを勝手に訳してwebに上げちゃう。のはどうかという話。ここまでの流れで考えれば、商業ベースか個人ベースかはともかく出版しちゃうといろいろめんどくさそうだけど、個人のサイトに置くことには何にも問題ない、はずだ。webと出版の関係も最近では一方的なものではなくなりつつあり、逆流現象もおこっているわけだし、文化醸成的な観点からはむしろ歓迎すべきことだろう。音楽におけるオリジナルとカバー、文字の世界での原書と翻訳の関係性は簡単にパラレルとは言えない微妙なものがあるけど、いわゆるコピペ文化とまったく同列であるかのように扱うのは明らかに間違っている。電子資源がらみだから話が複雑そうに見えるけれど、結局山の上から言いたいことを叫ぶときに権利とか問題じゃないだろということ。「翻訳」が自分の声か人の声か、についてが難しいところだが、文脈は既存だが文章はそこではじめて生みおとされるものだ。またそうした行為が職業翻訳家の権利を圧迫するともまったく思わない。ほとんど関係ない。

以前から著作権の管理団体法人には割と毒突いてたくせに意外と腰が引けてたのかも。ということなので、ペーパーバックはどっか行っちゃってるんだけれど、見つけたら今度はweb上で再開するかも知れません。音楽にしろ文学にしろ裾野アマチュアのこうした文化的下支えをあんまり邪険にしちゃだめだよ。

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